区の歴史資料館

大野城(跡)の歴史

市名の由来ともなった大野城跡、わが国最古の山城である。
現在は大野山から四王寺山と名称は変わったが、水城跡とともに国の特別史跡に指定されている貴重な遺跡であるが、意外と歴史は知られていないようである。
大野城市・太宰府市・糟屋郡宇美町の2市1町にまたがるこの城の歴史を紙面の関係ですべては紹介できないが、概略を説明しよう。
「日本書紀」によると、西暦660年(1,346年前)に朝鮮半島の百済が、唐・新羅から攻め込まれたので、日本に救援軍の派遣を要請してきた。これに応じた大和朝廷の斉明天皇が、皇太子である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)に救援軍の指揮を命じた。天智2年(西暦663年)9月、百済のために出兵した救援軍は、白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗を喫し、朝鮮半島から撤退した。そのため連合軍が海を渡って攻め込んでくることを恐れ、博多湾側からの侵攻に備え、その翌年に大宰府(現在の都府楼跡)(歴史上の地名は太→大を使用)防衛のための施設として水城(全長1.2キロメートル、幅80メートル、高さ13メートルの人工の盛土による土塁で、博多湾側に幅60メートルの濠があった。)を築き、西暦665年に百済亡命貴族の指揮下で大野山全体を城とする朝鮮式山城、大野城を築造した。
守りやすく攻められにくい山の地形を巧みに利用して、山の尾根に沿って土塁を築き、谷には石垣を築き、総延長は8キロメートルにおよんだ。その内側には7つの礎石群に別れ、全体で70もの建物やいくつかの井戸を設け、水城が突破されたときは、大野城に登って立てこもり長期間戦えるよう食料や、武器を保管していた。
この大野城の築城と併せて、有明海側からの侵攻に備え、基肄城(きいじょう)(佐賀県基山町)が造られた。
実際には唐・新羅軍が攻めてくることはなかった。

大野城跡一帯の四王寺山は、大城山(410メートル)が正式名称であるが、奈良時代(西暦774年)に持国天(じこくてん)・増長天(ぞうちょうてん)・広目天(こうもくてん)・多門天(=毘沙門天びしゃもんてん)をまつる四天王寺が建てられたため、四王寺山と呼ばれるようになった。

この山に分け入ると、防人たちの息づかいが土塁や石垣の陰から聞こえてくるような感じを受け、古人(いにしえびと)の緊張が、今でも伝わってくるようである。
市内のどこからでも見ることができる四王寺山、裾野を左に乙金山、右を太宰府に広げ、福岡平野を見続けてきた山、太古の昔からいつも変わらない姿があった。

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 正面の山は四王寺山(大野城跡)
斜めの緑は水城跡
市役所の屋上からの展望

天神の森(乙金)

大宰権師となって九州に下られる道真公(みちざねこう)一行の、一ヶ月あまりの長い苦しい旅もいよいよ終わりとなり、大宰府を目の前にした乙金まで来られたときに、お供の中の一人が長旅の疲れのために高熱を出して、動けなくなってしまいました。
長い道中を失意の道真公を慰め励ましながら、やっとここまでたどり着いたのに、とうとう病気になってしまったのです。
乙金村には医者は居りません。道真公は持参しているいんろうの薬だけを頼りに、一生懸命看病されました。
しかし、その甲斐もなく、お供の人はとうとう死んでしまいました。
大そう悲しまれた道真公は、村はずれの森の一隅に埋めて、手厚く葬ってあげられました。それからこの森を天神森というようになったということですが、森の中にはいつ頃建てられたのかわからない自然石の石塔があり、「疫神(えきじん)」と刻まれていて、村人たちは季節ごとの花をあげて、病魔から守っていただくようお祈りしています。

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乙金宝満神社の疫神 乙金宝満神社

疫病とは?
昔は疫病がはやるのは疫病神という霊的なものが、他所からやってくるものと考えられていましたので、村境に注連縄(しめなわ)を張ったり、疫病の源を藁人 形(わらにんぎょう)などの形代(かたしろ)に封じ込めて村から送り出したり、または疾病神をなだめるためのお祭をするなどして、病気の予防をしていまし たが、天神の森の疫神も他所からの病魔の侵入を防ぎ、村に疫病が流行したときは、他所へ送り出したあと再び戻ってこないようにという村人たちの祈りをこめ て、村境に立てられたものと思われます。
この疫神の碑は道路の拡幅舗装のため現在は乙金宝満神社境内(おとがなほうまんじんじゃけいだい)に移設されています。大野城市内にはここと牛頸区大立寺(うしくびくだいりゅうじ)の2ヶ所にあります。

大野城市指定文化財

夏越し祓い祇園踊りの絵馬

乙金区にある乙金宝満神社拝殿には「夏越し祓い祇園踊り(なごしはらいぎおんおどり)」と名づけた絵馬が掲げてあります。この絵馬は市内の神社に奉納してある絵馬の中で最も古く、江戸時代後期の天保2年(1831)博多の町絵師、村田東圃(むらたとうほ)によって描かれています。
11人の男女が手に手に扇を持ち、輪になり右回りに踊っています。その身のこなし、表情から踊っている人物の生き生きとした楽しそうな様子、さざめきまでもが伝わってきそうな絵馬です。

history6.jpg額(がく)は檜(ひのき)で縦117cm、横188cmと大きく、「天保(てんぽう)二辛卯(かのとう)六月十日産子中(うぶこちゅう)」「應需東圃冩□」(もとめに応じて東圃(とうほ)(これを)写す)の紀年名があります。旧暦六月は古来、祓(はら)いが行われる月で、この絵馬は風俗画として当時の習俗、また服装、髪型などを知る上でも貴重な作品です。

夏越し祓いとは
古代から6月と12月はそれまで半年のけがれを祓い浄(きよ)め、その後半年の無事を祈る「祓え」という神事が行われてきました。旧暦六月三十日に行われる祓えを「夏越し払い」といいます。
夏は災害が多く、疫病も流行るため、茅の輪(ちのわ)くぐりや人形流しの祓いをして夏を乗り切りました。祇園祭も疫病神を祓うお祭りなのです。

発掘調査現地説明会/薬師の森遺跡

“見えてきた乙金の歴史-古墳時代集落と中世水田の歴史-”

平成21年1月24日(土)10時から薬師の森遺跡(やくしのもりいせき)第5次調査現地説明会がありました。
古墳時代の集落や中世の水田が見つかり、新聞報道を見た考古学ファンが雪の中60人以上訪れ、熱心に説明に聞き入っていました。

1.遺跡の位置

薬師の森遺跡は乙金山(おとがなやま)・大城山(おおぎやま)から西側にのびる丘陵上に位置し、大野城市乙金3丁目一帯に広がっています。今回の5次調査は大野城市乙金3丁目414-2ほかにあります。
これまでにも区画整理事業や開発に伴い4回発掘調査が実施され、旧石器(きゅうせっき)・縄文(じょうもん)時代~鎌倉(かまくら)時代にかけての遺構・遺物が見つかっています。

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▲薬師の森遺跡全景
▲薬師の森遺跡第5次調査地点位置図と周辺の遺跡分布図
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2.調査の概要

調査地は丘陵北側の緩やかな斜面と丘陵北側にある谷部にあり、最近まで丘陵部は畑、谷部は水田として利用されていました。丘陵部をA区、谷部をB区として、平成20年8月から約7,000平方メートルの面積を対象に発掘調査を実施しました。調査の結果、A区では縄文時代~鎌倉・室町(むろまち)時代にかけての遺構(いこう)・遺物(いぶつ)が出土しました。B区では鎌倉・室町時代の水田跡が発見されました。遺物はパンケース(65×45×15cmの箱)で約100箱分出土しました。

確認された遺構と遺物(A区)

年 代 時 代 遺 構 遺 物 遺構の
性格
約4000~
3000年前
縄文時代
後半期
  土器・石鏃・石匙 不明
約2400年前 弥生時代
前期
土坑 土器・石鏃・
石庖丁
集落
6世紀中頃~
7世紀初頭
古墳時代
後期
竪穴住居
溝・ 土坑
須恵器・土師器・
製鉄関連遺物・
鉄器・装身具・
祭祀具・算盤玉形
紡 錘車
集落
8世紀 奈良時代 溝・土坑
掘立柱建物
須恵器・土師器 集落
8世紀末~
2世紀末
平安時代   越州窯系青磁他 不明
12世紀末~
16世紀
鎌倉・室町時代 溝・土坑・
柱穴
青磁・白磁・
土師器・石鍋・
中国銭
集落

 

■確認された遺構と遺物(B区)

年 代 時 代 遺 構 遺 物 遺構の性格
約4000~
3000年前
縄文時代
後半期
     
約2400年前 弥生時代
前期
     
6世紀中頃~
7 世紀初頭
古墳時代
後期
     
8世紀 奈良時代      
8世紀末~
12世紀末
平安時代      
12世紀末~
16世紀
鎌倉・室町時代 水田跡 青磁・白磁・
土師器・石鍋
水田

 

■縄文時代:人類活動の痕跡を確認
縄文時代の遺構はありませんでしたが、縄文時代晩期(約4000~3000年前)の土器や石鏃(せきぞく:矢の先端)などが出土しました。

■弥生時代:集落の一部を確認
弥生時代の遺構としては土坑(どこう:様々な目的で営まれた穴の跡)が少数あり、前期の土器(約2400年前)や石庖丁(いしぼうちょう:稲穂を摘み取るための農具)が出土しました。集落の一部であったと考えられます。

■古墳時代:集落の発見
今回の調査で確認した遺構はほとんどが古墳時代後期(約1500年前)のもので、竪穴住居(たてあなじゅうきょ)を中心に溝や土坑などがあり、集落があったことが明らかになりました。住居はそれぞれが重なり合いながらつくられていることから、数世代にわたって集落が営まれていたことがわかります。

住居からは須恵器(すえき)・土師器(はじき)のほか、ミニチュア土器・土製模造鏡(どせいもぞうかがみ)・滑石製有孔円盤(かっせきせいゆうこうえんばん)といったお祭りの道具や、管玉(くだたま)・小玉(こだま)・耳環(じかん)などの装身具、鉄器などのほか、朝鮮半島系遺物や須恵器づくり・鉄づくりに関連する遺物が出土しました。古墳時代の集落については後で詳しく述べます。

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調査区全景(古墳時代の遺構面)
四角の穴が住居跡
調査区全景(中世の遺構面)

 

■奈良時代~平安時代:集落の一部と遺物を確認
奈良時代の遺構は掘立柱建物や溝・土坑(どこう)が少数あり、 集落の一部と考えられます。次の平安時代の遺構は確認されませんが 特徴的な遺物として越州窯系青磁(えっしゅうようけいせいじ:中国から 輸入された陶磁器)が出土しています。乙金地区では奈良時代~ 平安時代にかけての様子はこれまでよくわかっていません。 今回の調査では、断片的ですがこの時代の資料が発見され、 今後周辺の調査に大いに期待が持てます。

■鎌倉~室町時代:市内初となる水田跡と集落の一部を発見

谷部(B区)で大野城市初となる水田の跡を確認しました。B区は調査前まで現代の水田として利用されていましたが、現水田面下約1mから鎌倉時代~室町時代の水田跡が発見されました。
水田跡は洪水により流されてきた砂の層により覆われていたため、当時の状況がよくわかる状態で残っています。洪水の被害によって耕作できなくなったのでしょう。水田は畦によって約20の区画に分けられていますが、現代の水田のように直線的に整備された区画ではなく、微妙な地形に沿って曲線的につくられています。
用水路から直接1枚の水田に水を供給するのではなく、棚田(たなだ)のように上の田から下の田へ水を送っていた状況が明らかになりました。また水田には当時の人々の足跡も複数残されています。丘陵部(A区)では居住域の一部と考えられる遺構が確認されており、丘陵部(A区)に居住し、谷部(B区)で水田耕を行っていたと想定できます。
水田発見の意義としては、次の2点が挙げられます。

  1. 査地周辺では、青磁や白磁(はくじ)が副葬された富裕層の墓も調査されており、こうした人々の生活基盤や地域開発の様子、集落の景観などをうかがえる。
  2. 水田が洪水砂で覆われていた点や良好に残る足跡から、当時の人々の姿や、自然災害とのかかわりを身近に感じる事ができる。
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水田に残された足跡

3.古墳時代集落の様相

今回の調査で確認した古墳時代集落の様相について、以下で詳しく説明します。

(1)集落の時期
今回発見した集落は、出土した須恵器・土師器の特徴から、6世紀中ごろから形成が始まり、7世紀初頭までの約半世紀間存続することがわかりま した。

(2)竪穴住居
当時の人たちはどのような家に住んでいたのでしょうか?以下で詳しく見ていきたいと思います。

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竪穴住居とカマド
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今回発見した住居は全て「竪穴住居」とよばれるものです。竪穴住居とは地面に穴を掘り、そこに柱を立て屋根を葺(ふ)いた住居のことです。

今回見つかった住居は、主に一辺4~6mほどの正方形のもので、住居の中にはカマドが設置されています。カマドは今でいう台所にあたるもので、日本でも戦後ころまではみられたようですが、そのカマドの原型となるものが検出されています。粘土で構築しており、周囲から土師器甑(こしき:食物を蒸すための土器)や甕(かめ:鍋のようなもの)が出土することがあります。カマドの中には焼土(しょうど)や灰の層が確認されることから実際に使用していたことがわかります。

住居は30軒ほど確認しましたが、その大半が重なり合った状態で見つかりました。それは、多くの人々が長期間にわたって家の建て替えを繰り返しながらこの土地で生活を営んでいたことを裏付けています。今は住居の基礎の部分しか見ることはできませんが、実際には柱が立てられ屋根が葺かれて、食事の時間には家々の屋根からカマドの煙が立ち上っていたことでしょう。

(3)特徴的な出土遺物
(A)朝鮮半島系遺物(ちょうせんはんとうけいいぶつ)
■算盤玉形陶製紡錘車(そろばんたまがたとうせいぼうすいしゃ)
非常にユニークな形をした紡錘車(ぼうすいしゃ)が見つかりました。それは算盤玉形陶製紡錘車といわれるもので、文字通り、算盤玉のような形をした陶製(須恵質)の紡錘車のことで、直径3.5cm、厚さは2.0cmほどです。

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紡錘車とは糸を紡ぐ時に、回転によって糸によりをかけるため、糸巻棒(いとまきぼう)にさして回転を良くするための道具です。円盤形・截頭円盤形・算盤玉形で、土製・石製・鉄製・骨製などがあり、直径3~5cmで中心に貫通孔(かんつうこう)がある。

 

■有溝把手付甑(ゆうこうとってつきこしき)
古墳時代の集落から甑が出土することは珍しくないのですが、今回の調査では一風変わった甑が出土しました。これは有溝把手付甑といわれるもので、甑把手の上面に溝(筋)を施しており、朝鮮半島の土器の影響が認められます。

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甑とは底部に孔を有する深鉢形の土器で食物を蒸すための道具です。

 

(B)須恵器製作関連遺物
須恵器(窯で焼かれた器で、硬く灰色をしている)をつくる際に生じたと考えられる陶片(とうへん:切削物〈せっさくぶつ〉)が出土している他、焼いた時に歪んだと考えられるものや生焼けのものが出土しています。集落の中に須恵器を作る工房が存在した可能性があり、周辺の調査に期待が高まります。

※調査地から700m北に乙金窯跡・500m南に雉子ケ尾窯跡・1km南に裏ノ田窯跡があり、いずれも6世紀後半~7世紀初頭にかけての須恵器窯跡があります。

(C)製鉄関連遺物
鉄滓(てっさい:製鉄や鉄器製作の際に生じる鉄カス)や炉壁(ろへき:製鉄炉や鍛冶炉の上部構造)と考えられる遺物が出土しており、鉄づくりを行っていた可能性を示しています。

(D)祭祀具(さいしぐ:おまつりの道具)
ミニチュア土器・土製模造鏡(どせいもぞうきょう:鏡を模した土製品)・滑石製有孔円盤など、おまつりに使ったと考えられる遺物が出土しました。住居の床面やカマド内から出土した例があり、家族・集落単位でのまつりやカマドに対する祭祀があったことがうかがえる資料といえます。

(4)集落と古墳
本調査の東側にある乙金山山麓(おとがなやまさんろく)には喜一田(きいちだ)・王城山(おうぎやま)・古野・原口古墳群といった多くの古墳がつくられています。これらの古墳は本調査地から半径500m圏内に分布しており、6世紀中ころ~7世紀にかけてつくられていたことがわかっています。今回確認した集落は、時代的・地理的にみて、乙金山山麓に分布する古墳に葬られた人々の集落であったと考えられます。
最後に、これまで検討してきたことを総合して、古墳時代集落についてまとめてみたいと思います。

(5)古墳集落発見の意義
これまで乙金山山麓に分布する古墳をつくった人たちの集落は未発見でしたが、今回の調査の結果、古墳群と集落の対応関係の一部が確認でき、大きな発見となりました。またこれらの古墳のうち、王城山古墳群や唐山遺跡では6世紀末~7世紀後半にかけての新羅土器が出土しており、今回発見された算盤形陶製紡錘車や朝鮮半島系土器は、古墳群で確認されていた朝鮮半島との交流が集落でも確認できた点は大きな成果といえます。

また、集落内で須恵器づくりや鉄づくりの痕跡が確認されたことも、注目できます。須恵器生産・鉄生産に渡来人(とらいじん)が深く関与していたことは、古墳時代の日本列島各地で認められており、この点からも半島文化との密接なつながりを垣間見ることができます。

薬師の森遺跡に朝鮮半島系遺物を携えた人々は、この地で倭人(わじん:日本)社会に溶け込みながらも、朝鮮半島とのパイプを保持し、ときには半島の技術を伝え、ときには半島との交流の担い手として、古墳文化の中で大きな役割を果たしていたことでしょう。算盤玉形陶製紡錘車や朝鮮半島系土器は、こうした朝鮮半島との関係を如実に物語る資料といえます。古墳時代集落の発見によって、歴史の中のほんの一部分が明らかになりました。 今回出土した算盤玉形紡錘車は、まさしく歴史を紡ぎだす際に大きなヒントを与えてくれます。

4.まとめ

今回の調査の結果、縄文時代~室町時代にかけての遺構・遺物を確認し、人々の暮らしが連綿と続いていたことが明らかになりました。縄文時代や平安時代では、断片的な資料を得ることができ、弥生時代・奈良時代では集落の一部を確認しました。今後の調査に期待が持てる成果といえます。
鎌倉・室町時代では水田跡および同時期の集落の一部と考えられる遺構を確認しました。水田跡は市域初の発見であるのみならず、保存状態が良好で広い面積を調査できたことは、当時の景観や水田の構造を明らかにする上で、重要な資料となります。 また、当地の土地利用のあり方が中世期までさかのぼることが明らかになった点も大きな成果といえるでしょう。 古墳時代集落の発見は、乙金地区や大野城市のみならず、北部九州や日本列島の古代史、 日韓交渉史を考える上で非常に重要です。

現地説明会/薬師の森遺跡

よみがえる!中世の輝き“海を渡った輸入陶磁器と木棺墓の発見”

平成20年4月12日(土) 午後2時から薬師の森遺跡で現場説明会を開きました。当日は天候に恵まれ、約100人の考古学ファンが訪れました。

1.遺跡の位置

薬師の森遺跡は大城山から西側にのびる丘陵上に位置し、大野城市乙金3丁目一帯に広がっています。今回の調査地は大野城市乙金3丁目187ほかに所在します。これまでにも開発に伴い2回発掘調査が実施され、奈良時代~鎌倉時代にかけての遺構が見つかっています。
また、周辺の乙金山山麓には古墳時代後期~終末期にかけて大規模な古墳群が営まれています。そのため、今回の調査では古墳時代や中世の遺跡が発見されることが予想されていました。

[大野城市]
1松葉園遺跡 2石勺遺跡 3村下遺跡 4川原遺跡 5ヒケシマ遺跡 6中・寺尾遺跡 7森園遺跡 8仲島遺跡 9御陵前ノ椽遺跡 10銀山遺跡 11原田遺跡 12雉子ケ尾遺跡 13榎町遺跡 14松ノ木遺跡 15釜蓋原遺跡 16塚口遺跡

[春日市]
17立石遺跡 18原町遺跡 19駿河遺跡 20九州大学筑紫キャンパス内遺跡 21御供田遺跡 22春日高校内遺跡

[福岡市]
23金隈遺跡 24南八幡遺跡9次 25雑餉隈遺跡群5次 26麦野C遺跡群5次 27井相田C遺跡群3次 28井相田C遺跡群4次

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薬師の森遺跡3次調査地点と周辺遺跡の分布図
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2.調査の概要

調査地は乙金第二土地区画整理に伴い、平成20年2月から3月にかけて約400平方メートルを対象に実施しました。本調査は丘陵裾部の南側斜面に当たります。調査地の南側は昭和期まで池として利用されていたため、古い時代の地形は残っていません。本来はもう少し南側まで遺構が展開していたと考えられます。また北側丘陵部分も後世の開発により一部が削られています。調査では縄文時代~平安末・鎌倉時代初頭にかけての遺構が見つかりました。主な遺構として、落とし穴1基(SX01)・竪穴住居1基(SC01)・掘立柱建物1棟(SB01)・須恵器の窯に関連する遺構1基(SX09)・木棺墓1基(SX11)の他、性格不明の土坑やピット(小さな穴)などがあります。以下、時代の古い順に遺構・遺物の概要について説明していきます。
※考古学の分野では遺跡や遺構・遺物の内容から、11世紀中頃(平安時代後期)以降を「中世」と捉えるのが一般的です。

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▲薬師の森第3次調査遺構配置図 ▲薬師の森遺跡第3次調査全景(南から)

 

〔縄文時代の遺構〕
もっとも古い遺構として落とし穴(SX01)があります。平面は隅丸長方形で、長軸1.8m・短軸1.3m・深さ1.2mほどのやや大きく深い遺構です。遺構の底には逆茂木(さかもぎ)の痕と考えられる直径5cmほどの杭の痕跡が見つかりました。人を落すためのものではなく、シカやイノシシを捕らえるため狩りをする目的で設置されたものと考えられます。遺構の中から縄文時代早期(約8,000年前)に位置づけられる土器と石の鏃(やじり)が出土しました。

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 ▲落とし穴(SX01)

〔古墳時代〕
古墳時代の遺構として、竪穴住居や掘立柱建物(地面に穴を掘り、柱を立ててつくった建物)があります。竪穴住居(SC01)は長辺の長さが約5mのやや大型の住居です。住居の中には、東側の壁に接して竃(かまど)が設置されています。掘立柱建物(SB01)は、2×3間(柱と柱の間のことを1間と呼ぶ)(3.5m ×5.0m)の規模と考えられます。竪穴住居・掘立柱建物からは、6世紀末~7世紀初頭頃の須恵器・土師器が出土しました。どのような人がここに家をつくり、どのような暮らしをしていたのでしょうか?

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▲竪穴住居(SC01)
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▲掘立柱建物(SB01)

 

〔奈良時代の遺構〕
須恵器の窯に関連する遺構(SX09)が発見されました。遺構からは多量の須恵器(生焼け含む)や焼台(土器を焼く際に、土器の下に設置した粘土の塊)が出土し、埋土には炭化物や焼土がたくさん含まれていました。出土した遺物の内容や埋土の特徴から、この遺構は須恵器の窯に関連する遺構の可能性が極めて高いと考えられます。北側丘陵部分が削られていることを考慮すると、本来、北側丘陵部分には須恵器の窯があったのでしょう。出土した須恵器は8世紀後半に位置づけられます。

〔平安時代末~鎌倉時代初頭〕
平安時代末~鎌倉時代初頭の遺構は、木棺墓(もっかんぼ)(SX11)があります。長軸1.8m・短軸0.8mの長方形の遺構で、主軸は南北方向を向きます。北側の底近くで完形品の青磁椀2点・青磁皿5点が出土し、鉄釘も見つかりました。青磁椀・皿は当時の中国(宋)で焼かれ日本に輸入されたもので、時代は12世紀後半(平安時代末~鎌倉時代初頭)に位置づけられます。このお墓に葬られた人は木の棺(ひつぎ)におさめられ、その枕元には高価な青磁を供えられた状態であったことがわかりました。

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▲木棺墓(SX01)
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▲木棺墓から出土した青磁

3.中世木棺墓発見の意義

  • 青磁は7点(椀2点・皿5点)出土しており、全て完形品である。
  • 12世紀後半頃に中国で焼かれ、日本に輸入されたものである。
  • 椀は2点出土しており龍泉(りゅうせん)窯系青磁と呼ばれるもの。龍泉窯系青磁とは中国南部の浙江(せっこう)省にある窯で焼かれた青磁のことで、青みを帯びた緑色に発色する釉(うわぐすり)が特徴的。ヘラ状工具により内面を5分割し、その間に飛雲文ないし花文を表現する。内面見込みにはキノコ状の文様を施す。
  • 皿は5点出土しており、同安(どうあん)窯系青磁と呼ばれるもの。同安窯系青磁は中国南部の福建省で生産された青磁。 釉は黄色味を帯びた緑色に発色する。内面見込みにヘラ状工具による文様と櫛状工具によるジグザグの文様を施すものが特徴的。出土した皿のうち1点には外底面に墨書で「廾」のような文字(記号?)を書いたものがある。

以上のことから、遺体は頭を北側にして木棺におさめられていると考えられ、枕元に青磁を7点も供えられるなど、手厚く葬られていることが窺えます。副葬品が豊富であることや単独の墓であることから、ここに葬られた人は高い階層の人物であったといえるでしょう。

乙金地区における中世のお墓は今回発見された木棺墓を含め10例発見されています。土師器や陶磁器などのほか鉄刀を副葬するものもあり、複数の有力者が存在したと考えられます。陶磁器の出土量という点では今回発見の木棺墓がもっとも豊富で、有力者同士の関係を考える上で参考になります。

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中国の主要な陶磁器窯跡分布図
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  乙金近辺で発見された中世の墓

 

  遺 跡 遺 構 出土遺物
A 薬師の森遺跡3 木棺墓 龍泉青磁椀2、同安青磁皿5
B 薬師の森遺跡2 木棺墓 龍泉青磁椀1、青白磁合子(身)1
C 森園遺跡(1次) SP01(土坑墓) 同安青磁椀1、白磁椀1、土師器皿2、鉄刀1
SP02(土坑墓) 鉄器1
SP03(土坑墓) 白磁椀1、青白磁合子(身)1
土師器皿5、土師器杯1、瓦器椀1
中・西コモリ遺跡 木棺墓 白磁椀1、土師皿3
D 松葉園遺跡 土坑墓 白磁椀2
E 塚口遺跡 SP01(土坑墓) 須恵質土器鉢1、土師器皿破片1
SP02(土坑墓) 土師器椀破片1
SP03(土坑墓) 白磁椀1、鉄刀1

4.まとめ

今回の調査の結果、本調査地では縄文時代~中世に至るまで人々の暮らしが連綿と続いていたことが分かりました。縄文時代には狩猟の場、古墳時代には集落、奈良時代には生産の場、中世には墓として利用されており、人が活動するのに非常に良い環境であったと評価できます。各時代の各遺構・遺物はこの地域にとっては非常に貴重な発見でありますが、特に木棺墓の発見と中国から輸入された青磁椀・皿の出土は注目できます。また遺構・遺物の内容からここに葬られた人物は高い階層の人物であったことがわかりました。具体的には、この地域の開発に貢献した有力者と想定できます。乙金地区の開発史や当時の国際関係史を考える上で非常に貴重な発見であるといえるでしょう。

今年度以降も区画整理に伴い発掘調査を継続していく予定で、新たな発見が期待されます。木棺墓に葬られた人の住宅や他のお墓が発見されるかもしれません。今後はこうした調査成果を積み上げることにより、昔の人々の暮らしぶりや当地域の歴史が解明されていくでしょう。

  • 大野城市
  • 大野城まどかぴあ